「首吊り士」事件に思うこと。生きる自由と死ぬ自由。

連日ニュースを騒がせている神奈川県座間市のアパートで9人の切断遺体が見つかった事件の白石隆浩容疑者こと「首吊り士」

Twitterで自殺を匂わせる構ってちゃんに「一緒に死のう」などと持ちかけ、実際にはレ◯プして、お金取って、殺して、バラバラにするというまれに見るクズな手口で犯行を繰返したと報道されております。まあ、このヒトはノーマルとは一線を画した特殊な性癖を持った方なのかもしれません。

それにしても、「一緒に死のう。」「殺してあげる。」この言葉が(少なくともその瞬間は)心に響き、その誘いに乗ってしまった方が少なからずいたという事実は一体何を示しているのでしょうか?

 生きる自由、死ぬ自由 

生きる自由と聞くと、少なくとも現在の日本であれば多くの方が当然の事(=権利)と感じることでしょう。仕事は自由に選べるし、戦争に行くことを強要されるわけでもないのだから。

しかし一方で、死ぬ自由と聞くと多くの方が違和感を覚えるかもしれません。生と死は逆の事だし、自殺は自分というヒトを殺す罪と考える人も多いでしょう。

もし誰も見たことのない想像上の産物である死後の世界を想定するのであれば、確かに死は生とは逆の状態であると言えるのかもしれません。しかし、実際には死とは生の最後の瞬間のことであり、その意味では生の最初の瞬間である誕生こそが逆の事であり、だとすれば死は誕生と同様に生の一部であるように思えます。

即ち、生きる自由と言うのであれば、それは死ぬ自由も自ずと内包されているのが自然に思えるのです。

 考えすぎるヒト。 

普通、動物にとって一番の恐怖は死です。だからこそヒトは現実が辛くても生きるのであって、だからこそ生物は40億年もの間生きながらえて来たのです。生命の危機を感じればミミズでもアリンコでも(多分)ミジンコでも避けようと必死にもがくことでしょう。

にも関わらず、一部のヒトは死にたいと思います。それは死の恐怖よりも生の苦しみが勝った状況や状態にあるためだと考えられます。自殺をする生物がヒト(と寂しいうさぎちゃん)しかいないことを踏まえると、脳が進化しすぎた為に生じた一種のエラーの様なものなのかもしれません。

 死の起源 

実は細菌やアメーバなどの単細胞生物は環境が整えば無限に分裂を繰返し、寿命という概念がありません。生物の進化の観点から死を捉えると、環境の変化に対応するためなどの理由(まだはっきりした理由は判っていないものの)から、死は進化的に獲得された機能であることがわかります。

世知辛く言ってしまうと、ほどほどで死ぬほうがその種の生存に都合が良かったから。とも言えるだろうし、遺伝子寄りの立場からはDNAのダメージを無限に修復し続けるよりは次の世代に引き継いだほうがエネルギー効率が良かったからとも言えそうです。

 改めて、死ぬ自由 

死は獲得された機能で、生の一部であるならば、ヒトとして“自分の意志で死ぬという生き方”を選択することに何故自由が認められないのか、避けなければいけないという風潮なのか、それはつまり生きる自由の一部を奪われるのか、疑問でなりません。

この死に対する偏見や不自由さが、朝の中央線を遅らせたり、「殺してあげる。」という言葉を甘美な誘いに変えたり、(医療費などの社会保障費をふくらませたり)する原因の一つになっていることは疑いようのない事実だと思います。

(`・ω・´) 少年よ、生死を抱け!