あたかも1万年も生きるかのように行動するな。肉体に関する全ては流れ、霊魂に関する全ては夢

漫画「ミステリと言う勿れ」で度々でてきて興味を持った、<PR> マルクス・アウレーリウス著「自省録(2013)」を読んでみました。

マルクス・アウレーリウスさんは何と西暦161-180年の第16第ローマ皇帝にしてストア派の哲学者とのこと。自省録は自分を諌めるために書いた手記が後々(勝手に)出版された物の様です。

 

例によって気になった箇所を抜粋します。

 

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 肉体に関する全ては流れ、霊魂に関する全ては夢 

 

第2巻6. せいぜい自分に恥をかかせたらいいだろう。恥をかかせたらいいだろう、私の魂よ。自分を大事にする時などもうないのだ。めいめいの一生は短い。君の人生はもうほとんど終わりに近づいているのに、君は自己に対して敬意を払わず、君の幸福を他人の魂の中に置くようなことをしているのだ。

 

 

第2巻17. 人生の時は一瞬に過ぎず、人の実質は流れ行き、その感覚は鈍く、その肉体全体の組み合わせは腐敗しやすく、その魂は渦を巻いており、その運命は測りがたく、その名声は不確実である。

一言にして言えば、肉体に関する全ては流れであり、霊魂に関する全ては夢であり煙である。人生は戦いであり、旅の宿りであり、死後の名声は忘却にすぎない。しからば我々を導けるものは何であろうか。一つ、ただ一つ、哲学である。

それはすなわち内なるダイーモンを守り、これの損なわれぬように、傷つけられるように、また快楽と苦痛を統制しうるように保つことにある。また何事にもでたらめに行わず、何事も偽りや偽善を持ってなさず、他人が何をしようとしまいと構わぬよう、あらゆる出来事や自己に与えられている分は、自分自身の由来するのと同じところから来るものとして、喜んでこれを受け入れるよう、何にも増して死を安らかな心で待ち、これは各生物を構成する要素が解体するに過ぎないものとみなすように保つことにある。もし個々のものが絶えず別のものに変化することが、これらの要素自体にとって少しも恐るべきことでないならば、なぜ我々が変化と解体と恐れようか。それは自然によることなのだ。自然によることには悪いことは一つもないのである。

 

 

第4巻3. 人は田舎や海岸や山に引きこもる場所を求める。君もまたそうした場所に熱烈に憧れる習癖がある。しかしこれは皆極めて凡俗な考え方だ。というのは、君はいつでも好きな時に自分自身の内に引きこもることができるのである。実際いかなるところといえども、自分自身の魂の中に勝る平和な閑寂な隠れ家を見出すことはできないであろう・・(中略)・・であるからこれからは、君自身の内なるこの小さな土地に隠退することを覚えよ。何よりもまず気をそらさぬこと、緊張しすぎぬこと、自由であること。そして男性として、人間として、市民として、死すべき存在として物事を見よ。そして君が心を傾けるべき最も手近な座右の銘のうちに、次の2つのものを用意するが良い。その1つは事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、煩わしいのはただ内心の主観から来るものにすぎないということ。もう一つは、全て君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。そしてすでにどれだけ多くの変化を君自身見届けただろうか、日夜これに思いをひそめよ。

宇宙即変化。人生即主観

 

 

第4巻17. あたかも1万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。

 

 

第4巻49. ・・・今後何なりと君を悲しみに誘うことがあったら、次の信条を拠り所とするのを忘れるな。曰く「これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」・・・

 

 

第6巻17. 自分にとって自然であり有利であると思われるものに向かっていくことを人に許さないのは何と残酷であろう。ところは人が過ちを犯したと言って腹を立てる時、君はある意味で彼らに以上のごとく振る舞うのを許してやらないのである。なぜならば人は一般に自分にとって自然であり有利であることに惹かれるものである。

「ところがそうではないのだ。」

それなら怒らずに彼らを教え示してやるがいい。

 

 

第6巻41. 自分に選択の自由のないものについて、これは自分にとって良いとか悪いとか考えるとすれば、こんなに悪いことが身に降りかかったとか、こんなに良いことが失敗したとか言って、君はきっと神々に対して呟かずにはいないだろう。また他人がこの失敗や災難の責任者であると言って、またはその嫌疑があると言って、人を憎まずにはいないであろう。全くこのようなことを重大視することによって我々は実に多くの不正を犯してしまうのである。しかるにもし我々が自分の自由になることのみを善いとか悪いとか判断するならば、神に罪をかぶせる理由もなく、人間に対して敵の立場を取る理由ももはや残されていないのである

 

 

第6巻44. ・・・もし神々が我々について何も協議しないならば、ともかく私自身は自分のことについて考えることを許されており、自分の利益について検討することができる。さて各人にとって有益なこととは、自己の構成素質と本性にかなったことである。ところが私の本性は理性的であり社会的である。私の属する都市と国家はアントーニーヌス(著者)としては、ローマであり、人間としては世界である。従ってこれらの都市にとって有益なことのみ私にとって善いことなのである。

 

 

第7巻2. ・・・私は物事について自分の持つべき意見を持つことができる。それができるなら、なぜ私は心を悩ませるのだ。私の精神の外にあるものは、私の精神にとって何の関わりもない事柄だ。このことを学べ、そうすれば君はまっすぐに立つ。・・・

 

 

第7巻38. 「物事に対して腹を立てるのは無益なことだ。なぜなら物事の方ではそんなことにお構いなしなのだから。」

 

 

第8巻36. 君の全生涯を心に思い浮かべて気持ちをかき乱すな。どんな苦労が、どれほどの苦労が待っていることだろう、と心の中で推測するな。それよりも一つ一つ現在起こってくる事柄に際して自己に問うてみよ。「このことの何が耐えがたく忍び難いのか」と。全くそれを告白するのを君は恥じるだろう。次に思い起こすがよい。君の重荷となるのは未来でもなく、過去でもなく、常に現在であることを。しかしこれもそれだけ切り離して考えてみれば小さなことになってしまう。またこれっぱかしのことに対抗することができないような場合には、自分の心を大いに責めな責めてやれば結局何でもないことになってしまうものである。

 

 

第8巻47. 君が何か外敵の理由で苦しむとすれば、君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、それに関する君の判断なのだ。ところがその判断は君の考え一つでたちまち抹殺してしまうことができる。また君を苦しめるものが何か君自身の心の持ちようの中にあるものならば、自分の考え方を正すのを誰が妨げよう。同様に、もし君が自分に健全だと思われる行動をとらないために苦しんでいるとすれば、そんなに苦しむ代わりになぜいっそその行動をとらないのだ。「しかし打ち勝ち難い障碍物が横たわっている。」それなら苦しむな、その行動をとらないのは君のせいではないのだから。「けれどもそれをしないでは生きている甲斐がない。」それならば人生から去って行け。自分のしたいことをやり遂げて死ぬもののように善意に満ちた心を持って、また同時に障碍物に対しても穏やかな気持ちを抱いて去って行け。

 

 

第9巻13. 今日私はあらゆる煩労から抜け出した。というよりもむしろあらゆる煩労を外へ放り出したのだ。なぜならそれは外部にはなく、内部に、私の主観の中にあったのである。

 

 

第9巻28. ・・・結局、もし神が存在するならば、万事よし。もし全てが偶然にすぎないならば、君までゆき当たりばったりに生きないようにせよ。

まもなく土は我々全てを覆い隠してしまうであろう。次に土自身も変化し、さらに次から次へと無限に変化していく。この変化と変形の波の動きとその速さとを考えてみる者は、もろもろの死すべきものを軽蔑するに至るであろう。

 

 

第10巻8. ・・・であるから以上のいくつかの名称の船に乗り込め。そしてもしその中に留まることができるならば留まれ、あたかもどこか極楽島にでも移り住んだ者のように。しかしもし君が難破しそうに感じ、頑張ることができなくなったならば、勇気を出してどこか優勢を取り戻せるような片隅に行くか、または綺麗さっぱり人生から去っていくが良い。その際怒りを抱かず、単純に、自由に、謙虚に去っていくことだ。少なくともこうして去っていくということだけ、君の一生を通じての善事となろう。・・・

 

 

第11巻7. 哲学するには、君の現在あるがままの生活状態ほど適してるものは他にないのだ。このことが何とはっきり思い知られることか。

 

 

第12巻21. 遠からず君は何者でもなくなり、いずこにもいなくなることを考えよ。また君の現在見る人々も、現在生きている人々も同様である。すべては生来変化し、変形し、消滅すべくできている。それは他のものが次々に生まれ来るためである。

 

 Tochiの勝手な感想 

科学技術が極めて未発達な時代に、しかも皇帝ともあろう人が、こんなにも自分にスパルタで、しかもこんなにも現在にも通ずる所の多い考えを持っていたことに心底驚いた。

こんなに凄い人がいたとは・・(しかも政治家で!?)

 

一方、科学真理教のTochiとしては、結局は神様頼りになっていることや、安易に善悪を定義することは共感しがたかったし、実は脳の機能であり肉体の一部である「精神」だけをなぜか絶対視している点や、神様の意思の欠片を持ち、宇宙の自然の一部であるとしているはずの人間が、なぜか悪事だけは容易に働き、またなぜか自制が可能であると考える点には矛盾を感じたものの、西暦100年代という科学的にはあたかも目隠しをされていたような時代であることを踏まえれば、この程度の矛盾で済んでいることは逆に驚異的だと言えるようにも感じた。

 

死に慄き、境遇に苦悩し、他者に苛立ち、名誉欲に溺れそうに成りながら、それでも強く自己を律することで何とか精神を保とうとした哲学する皇帝。なんという偉人がいたものか。

コメント

  1. 888 より:

    自分の場合はずいぶん昔に夜と霧のフランクルから神谷美恵子の流れで自省録に行き着きましたが、最近は漫画からの流れもあるんですね。勉強になります。

    • Tochi より:

      888さんこんばんは!

      >フランクルから神谷美恵子の流れで自省録に行き着き
      神谷美恵子さん、、初めて聞きました!(汗)
      あっ、「自省録」の訳者さんなんですね。
      興味津々、いつか読んでみたいと想います。

      教えて頂きありがとうございます!