幸福論が胡散臭く感じるワケ ~なお、内山直さんなる人物と当記事及び日大は一切関係ありません~

ヒトは誰だって幸せになりたい、筈なのに、幸せになる方法をやたら触れ回るヒトを見ていると何故か胡散臭さしか感じません。

 

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 宣教師たちのよどんだ瞳 

なぜかのかを考えた時、真っ先に思い浮かぶのは宗教です。ヒトに安らぎと目標、時には社会的な繋がりを与える一方で、ねずみ講や政治家に利用されて戦争のネタになってきたというきゃりーぱみゅぱみゅバリの黒歴史を決して忘れるわけにはいきません。

 

しかもタチが悪いのは、実はねずみ講であろうと戦争目的であろうと布教活動をしている方たちの多くが恐らく良かれと思って活動していそうな点です。信じたものが救われるのは命なのか足元なのか。こんなリスキーダイスはグリードアイランドでもない限り振れません。

 

 香り立つ幸福論 

かくいうTochiも幸福論は大好きなネタの1つで、よく他人をけげんな表情にしている張本人です。そんなTochiが言うんだから間違いありません。

 

幸福が~とか言っているヒトは、まぁ不幸です(笑)

 

臭いものには蓋をするのが細菌感染から身を護る自然界の掟ですから、不幸なところにヒトは近づきませんし、けげんな顔をするのも当然です。

 

かのソクラテスが「悪妻をもつと哲学者になれる」と言ったとか言わないとかいわれるのがその好例です。

我が身を振り返ってみると、幸せになる方法を探していた時は今思えば間違いなく不幸でした。ならば今は幸福なのかと問われると返答に困ります。

幸福なんて雲を掴むようなイメージだけのものにはもはや興味が無いからです。

 

例えばお金はどうでしょうか?

無いとものすごい困る(=不幸だ)けど、沢山あったからと言って幸福なわけでもなく、単に興味を失う(ないしは憑依されてさらに不幸になるタイプの靴屋さんになる)だけではないでしょうか?

 

例えば

ここが砂漠だったら恋人よりも大切なものかも知れませんが、日本だったらシャワーを浴びたい放題でいちいち有難がったり琵琶湖の貯水量を気にしたりしないのではないでしょうか?

 

そして幸福

不幸の反対のように思われがちですが、果たしてそうでしょうか。不幸を無くせば幸福に成るのでしょうか。熱いと寒いは逆ではなく、物理的には同じものの単なる速さ(=粒子の衝突速度)の違いでしかありません。そもそも心理学実験の定量性と再現性は一体誰が保証してくれるのでしょうか?それは科学と言っていいのでしょうか、あなたは神でしょうか?

 

 

えぇ、私こそが真実を知る神です。今日はその証拠に一つだけ新しいことを教えましょう。

実は

 

「日大と日体大は別のアメ~リカです!」

アレ、、知ってた?やる方の神様やん。

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