ゆとりは大切である。言うのは簡単だが、なかなか実感するのは難しくないだろうか?
どうしてだろう、どうすれば余裕を実感できるのだろう?
春分の日のごたごた
昨日は春分の日だった。まあ、アーリーリタイアしてしまえばいつも休みなわけだが、春分の日はPuchiも休みで、Puchiの友だちに誘われて近くの別荘に遊びに行くことになった。
早くも余裕である。仕事をしていたほんの数ヶ月前なら今週末はセミナーがあるから、書類があるからと、やりもしないのに焦って行かなかっただろうから。
前日、ワンコのくーぴーを連れて行くために午後になってぼちぼち準備をし始めると、Puchiから「仕事で遅くなる」とのめーる。「そー。ゆっくり準備できてラッキー」いつもなら想定と違えばイライラMAXだが、ここもやはり余裕である。
到着してもなかなか来ないお迎え。くーぴーをお散歩して暇つぶし。そもそも別荘の鍵を忘れたとかで予定が大幅に遅れたが、別に気にしない。サンポも楽しいし、楽しきゃそれでいいから。余裕である。
ご飯は新鮮な魚介類。
ハマグリってこんなに美味しかったのか!
余裕余裕とうるさいが、以前はそんな余裕はホントになかった。時間というより多分に精神的な話だが、どっちにしろ個人的にはゆとりのない生活を送っていたことにようやく最近気がつき始めている。
と同時に、辛いことはともかく、楽しいとか幸せだなーとかを気づくために、この余裕が如何に大切であるかと初めて思うことがとても多い。
何かに気がつくためには一見ムダなことに色々と気を配ることが必要だし、そのためには余裕がどうしても必要な様だ。
心を奪われがちな辛い状況では楽しいと感じることは難しく、色々なことに気を配ることもできなくなる。そして一番やっかいなのは何が大切かを簡単に見失うこと。
楽しむのが一番の目的なのに、遅れたイライラに心を奪われていると、くーぴーの嬉しそうな仕草に気がつくことができなくなる。酢飯の酢が薄いことばかり気にしていると、ハマグリの複雑なアミノ酸の味に気が付かなくなるのだ。
こんな簡単なことを気が付かない内に見失わせるのもこれまた余裕の無さ。
なぜこれほどまでに余裕がなかったのか?
余裕の必要十分条件
余裕にも色々ある。物やお金や時間や能力。でもそれらがある程度足りていても余裕を持つには不十分であった。
それはきっとそれ以上に大切な安心感や自己肯定感が乏しかったためだろう。絶対的に安心して育って来られなかったとか、究極的にはそういうことかもしれないが、そこまで大げさでなくとも個人的な性質や生活環境も大いに影響するのだろう。
汝我を知らなさすぎ。そして我を無視して行動選択をしすぎた。
それは社会の要求する価値観に合わせるためだったり、認められたいという欲求を追求しすぎたためであったと考えられるが、辛さばかりが際立ってしまった。
いま少し余裕を持てるようになったのも、半端ないほどの時間的な余裕と精神的な支えを得られたからである。お金や物も取り敢えずは充分にあり、時間も腐るほどある。
しかも腐るほどの時間ですら何ヶ月も経ってやっと少し余裕を感じるだけだけなほど、余裕の実感は難しかった。それほど余裕を得るためにはゆとりやバランス感覚が必要なのである。
ゴン太はくーぴーが好き
だけど
くーぴーは優しい遊びが好きだから
激しい遊びばかりのゴン太は苦手。
こんな事も、余裕を持って観察できて初めて気がつく。それがわかって初めてくーぴーと仲良くなれたりする。必要と十分の違いは思いの外大きい。
しかし、40歳間近でようやく余裕の大切さに気がつくとは。。やさしくなれるのは何歳なのか (´;ω;`) あれっ、死亡フラグ?
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