少数決原理、動的な格差、ピケティの定理の誤り、そして合理的とは何なのか?

「ブラック・スワン 不確実性とリスクの本質」で有名な、元デリバティブ・トレーダーで現在は不確実性科学を研究しているナシーム・ニコラス・タレブさんの「身銭を切れ――リスクを生きる 人だけが知っている人生の本質(2019)」を読みました。

インチキな現代ポートフォリオ理論、あるいはブラックスワンとの付き合い

 

前作同様、リスクの周辺事象に関して何か非常に大切なことを言っている様な気がするものの、Tochiにはハードルが高すぎて結局何がいいたいのかがイマイチ解りませんでした。それでも、悪口の切れ味の面白さを頼りに何とか読み進められる、そんな本でした。

例によって、個人的に気になったところだけをまとめます。

 

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 複雑系の特性 

複雑系が複雑系たる所以は何かと言うと、全体の振る舞いをその構成要素からは予測できないという点だ。部分部分の性質よりも、部分同士の相互作用の方が重要なのだ。個々のアリを調べても、アリのコロニーの仕組みはまず理解できない。そのためには、アリのコロニーを個々のアリの集まりではなく、アリのコロニーそのものとして理解しなければならない。これを全体の「創発特性」と呼ぶ。部分と全体が異なるのは、部分同士の相互作用こそが重要だからだ。そして、部分同士の副作用はごく単純な法則に従う場合もある。

 

これにより、いくつかの意外な事実が明白になる。

・市場参加者の平均的な行動を見て、市場全体の行動を理解することはできない。

・個人に関する心理学的実験で「バイアス」が証明されたからといって、そのまま個人の集合体や全体の行動、集団の振る舞いについて理解することはできない。

・脳の各部分(神経細胞など)の働きを理解したところで、脳そのものの働きは永久に理解できない。

・ある部位の遺伝子構造を理解したところで、その部位の振る舞いそのものは決して理解できない。

 

 少数決原理 

ここで議論する法則とは、あらゆる非対称性の生みの親である「少数決原理」だ。大きく身銭を切っている(できれば、魂を捧げている)ある種の非妥協的な少数派集団が、例えば総人口の3、4%とかいう些細なの割合に達しただけで、全ての人が彼らの選好に従わざるを得なくなる。

こういう少数派を「非妥協的」な集団、多数派を「柔軟」な集団とよぼう。両者の関係は選択の非対称性に基づいている。例えば、障害のある人は通常のトイレを使わないが、健常者は障害者用のトイレを使える。ピーナッツアレルギー持ちの人はピーナッツを少しでも含む食品を決して食べないが、ピーナッツアレルギー持ちでない人はピーナッツを含まない食品を食べられる。まっとうな人間は決して犯罪行為を行わないが、犯罪者は適法行為もどんどん行う。

 

この非対称性により、例えば社会における道徳的価値観は、不寛容であるというただ一点の理由だけで、他の人々に道徳を押し付ける最も不寛容な人(の拒否権の発動)によって形成されるのだ。同じことは公民権にも当てはまる。宗教の仕組みや道徳の広まりは、食事規定と同じくりこみのメカニズムに従う。つまり道徳は少数派によって形成されることが分かる。

 

 静的な格差と動的な格差 

明らかに、経済学者(特にリスクを犯した経験のないタイプ)は、動くものに対して精神的な難点を抱えているようだ。彼らは、動くものと動かないものでは性質が異なるということをどうしても理解できない。

まず、いくつか定義を。

 

・動的な格差とは、格差をスナップショットして切り取ったもの。その後の人生で起こる出来事は反映されていない。

例えば、アメリカ人のおよそ10%は所得分布の上位1%で最低1年間をすごし、全アメリカ人の半数以上が上位10%で1年間を過ごす。この状況は、より静的な(でも平等とされている)ヨーロッパとは目に見えて異なる。例えば、アメリカの最も裕福な500人の国民や支配者層のうち、30年後もそうだったのは10%に過ぎない。一方、フランスで最も裕福な人々は、その60%以上が相続人であり、ヨーロッパで最も裕福な家系の1/3は、数世紀前も裕福だった。フィレンツェはもっとひどい。5世紀もの間、全く同じ一握りの家系が富を独占してきたのだ。

 

・動的(エルゴード的)な格差とは、将来や過去の人生全てを考慮した格差。

・社会をより平等にするには、富裕層に身銭を切らせ、所得税1%から脱落するリスクを負わせなければならない。

動的な平等を実現するには、単純に底辺の人々の生活水準を引き上げるのではなく、むしろ富裕層を入れ替わらせる必要がある。つまり、全ての人々にその地位を失う可能性を負わせることが必要だ。

 

 ピケティの定理の誤り 

労働と資本収益率の増大に関するピケティの理論(r>g)は、いわゆる知識経済の台頭を目撃した人(あるいは、投資全般の経験がある人)なら誰でも知っている通り、明らかに間違っている。当然ながら、1年目と2年目で格差が変化しているという時には、頂点に立つのが同じ人々であることを証明する必要があるのだが、ピケティはそれを行っていない(経済学者という生き物は、動くものが苦手だという点を思い出してほしい)。だが問題はそれでは終わらない。私はすぐに、静的な格差の指摘から結論を導き出しているという点とは別に、彼の用いた手法に欠陥があることに気づいた。ピケティの用いた道具は、彼が格差の拡大について証明していると主張する内容とはマッチしていなかった。数学的な厳密性にも欠ける。

 

こうした誤りが知られていない理由は、格差を扱う経済学者自身が、格差について理解してないからだ。格差とはテールの持つ役割の不均衡である。富裕層は分布のテール部分に属する。システム内の格差が広がるほど、勝者総取りの効果は大きくなり、経済学者たちが教育を受けたシン・テールの月並みの国の手法は通用しなくなる。富の創出プロセスは勝者総取り効果によって支配される。官僚たちが先導する富の創出プロセスの管理手法は、どんな形であれ、特権階級の連中を特権階級に閉じ込める傾向にある。したがって、強者を挫く可能性のあるシステムを作るのが最良の解決策なのだ。

 

 合理性とは? 

私が現実的、経験的、数学的に言って厳密だと思う唯一の合理性の定義は、次のようなものだ。「生存に役立つものは合理的である」。現代の似非心理学者たちの理論とは異なり、この定義は古典的な考えに通ずる。「個人、集団、部族あるいは全体の生存を妨げるものは非合理的である」というのが私の考えだ。

信念というのは・・・安っぽい言葉にすぎない。人間の脳には私達の理解しがたい何らかの変換メカニズムが備わっているのかもしれない。思考のプロセスのレベルで生じる歪みは、物事がうまく機能するのに不可欠な可能性もある。

事実、あるメカニズム(より専門的に言えばバイアスとばらつきのトレードオフ)によって、誤りを犯す方がかえって全体的な結果が良くなることも多い。例えば、的の中心からわずかにそれた場所を固め打ちするようなケースだ。

 

 

バイアスとばらつきのトレードオフ

 

だからこそ、私は国家に行動を「指図」されるのには反対なのだ。間違った行動が本当に間違っているかどうかを知ってるのは、進化だけだ。もちろん、自然選択が働くよう、私たちが身銭を切っているという条件付きの話だか。

 

身銭を切らずして得るものなし。

 

 Tochiの勝手な感想 

全体を通して、身銭を切る(ある程度のリスクを取る)ことの重要性を具体例と悪口を交えて解説していた。学術的と言うより、様々な造語が散りばめられているタレブさん独自の哲学書を読んでいる様な印象だった。

特にタレブさんの身の回りの常識の間違いに関心があるようで、重箱の隅を突き回し、挙句の果てに穴を開けてしまうような執念深さを感じた。Tochiにはこの真偽の程を判断するほどの知識がないが、少なくともオリジナリティという点では抜群だ。読むのはやや苦痛だが、とても刺激的。よくわからないけど、何か面白い。

 

こんな本なら、もっと読みたい。

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