強制収容所から帰れた人々の特徴。感情の消失、精神の自由と生きる意味を問うこと

太平洋戦時下、アウシュビッツに強制収容された医師の壮絶な経験と、その際の人の内面の変化を心理学者として記述した、ヴィクトール・E・フランクル著「夜と霧 新版(2002)」を読みました。

親衛隊員のさじ加減一つで「ガス室送り」になり、幸運にもそれを免れても強制労働の疲労と飢餓と寒さで仲間が次々と命を落とす。そんな状況で人はどんな精神状態になり、一体何があれば耐えられるのか?

例によって、個人的に気になったところだけを抜粋します。

 

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 帰ってきた人々 

収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされた挙句、1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者は概ね、生存競争の中で良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういうものだけが命を繋ぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ってきた私たちは、皆そのことを知っている。私たちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

 

 強制収容所への収容 

精神医学では、いわゆ恩赦妄想という病状が知られている。死刑を宣告されたものが極刑の直前に、土壇場で自分は恩赦されるのだと妄想し始めるのだ。それと同じで、私たちも希望にしがみつき、最後の瞬間まで、事態はそんなに悪くないだろうと信じた。見ろよ、この被収容者たちを。頬は丸々としているし、血色もこんなにいいじゃないか!

私達はまだ何も知らなかったのだ。

 

 感情の消失 

被収容者はショックの第1段階から、第2段階である感情の消失段階へと移行した。その最たるものが、家に残してきた家族に会いたいという思いだ。それは身も世もなくなるほど激しく被収容者をさいなんだ。それから嫌悪があった。あらゆる醜悪なものに対する嫌悪。被収容者を取り巻く外見的なものがまず、醜悪な嫌悪の対象だった。このような正常な感情の働きはどんどん息の根を止められて行った。

 

苦しむ人間、病人、瀕死の人間、死者。これらは全て、数週間を収容所で生きた者には見られた光景になってしまい、心が麻痺してしまうのだ。

患者の消滅や鈍磨、内面の冷淡さと無関心。これら被収容者の心理的反応の第2段階の兆候は、ほどなく毎日毎時殴られることに対しても、何も感じなくさせた。この不感無覚は、被収容者の心をとっさに囲う、なくてはならない盾なのだ。なぜなら、収容所ではとにかくよく殴られたからだ。まるでは理由にならないことで、あるいはまったく訳もなく。

 

 胃袋オナニー 

被収容者は考える限りの最悪の栄養不足に悩まされていたので、収容所での精神生活に「呼び戻された」幼稚な衝動の中でも、食欲がその中心になった。被収容者が大勢で作業現場にいるとき、監視の目が緩んだとする。するとすぐに食べ物談義が始まるのだ。私はこの際限のないほとんど脅迫観念めいた食べ物話(収容所ではこういう会話を「胃袋オナニー」と呼んでいた)を常々困ったものだと考えていた。

 

 苛立ち 

感情の消失には別の要因もあった。感情の消失は、ここまで述べていきた意味における魂の自己防衛のメカニズムから説明できるのだが、それだけではなく肉体的な要因もあった。苛立ちも感情の消滅と並ぶ被収容者心理の際立った特徴だが、これにも肉体的な要因が認められる。肉体的な要因は数あるが、筆頭は空腹と睡眠不足だ。周知のように、普通の生活でもこの二つの要因は感情の消滅やイライラを引き起こす。

このようして生じた感情の消滅と苛立ちに、更なる要因が加わった。すなわち、普段は感情の消失と苛立ちを和らげてくれてくれた市民的な麻薬、つまりニコチンとカフェインが皆無だったのだ。そうなると感情の消滅にも苛立ちにもますます拍車がかかった。

 

 精神の自由 

収容所に唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分の在り様ががんじがらめに制限されてる中でどのような覚悟するかという、まさにその一点にかかっていた。

被収容者は行動的な生からも安逸な生からもうとっくに締め出されていた。しかし行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全なものになるのだ。

これは何も強制収容所には限らない。人間はどこにいても運命と対峙させられ、ただもう苦しいという状況から精神的に何かを成し遂げるかどうか、という決断を迫られるのだ。

 

 生きるのに必要なこと 

ニーチェの「なぜ生きるかを知っているものは、どのように生きることにも耐える」は的を射た格言だろう。

被収容者には、彼らが生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごと認識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていても何もならないと考え、自分が存在することの意味をなくすと共に、頑張り抜く意味も見失った人は痛ましい限りだった。そのような人々は拠り所を一切失って、あっという間に崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのは決まってこんな言葉だ。

「生きてることにもうなんにも期待が持てない」

こんな言葉に対して、一体どう答えたらいいのだろう。

 

 生きる意味を問う 

ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。私たちが生きることから何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待してるかが問題なのだ。ということを学び、絶望してる人間に伝えねばならない。哲学的用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういい加減、生きることの意味を問うことを止め、私たち自身が問いの前に立ってることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞をろうすることによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各々に課す課題を時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。

自分を待ってる仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。

 

 強制収容所からの開放 

解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば強度の離人症だった。全ては非現実で、不確かで、ただ夢のように感じられる。にわかには信じることができないのだ。ここ数年、頻繁に、あまりに頻繁に、私たちは夢に弄ばれすぎた。今日この日が本当にやってきたのだということを、何度夢で先取りしたことか。すると「起床」を告げる号笛が3度、耳をつんざき、自由から引き剥がされた。そして今、さあ信じろ、と言われているのだ。今この自由は果たして本当に現実なのだろうか。

 

 Tochiの勝手な感想 

病気から臓器の機能を知ることができることがあり、臨床病理学的研究と言われる。例えば、脳の海馬が傷害された患者は、昔のことは覚えているのに、新しいことを記憶できなくなったことで、海馬が新しい記憶に関係していることがわかるきっかけになった。

強制収容所という環境は、いわば精神の病気を強制的に引き起こすような環境とも言え、上記の例をなぞれば、精神の仕組みや機能を知る上では、(不謹慎ながら)結構有効だったのかも知れない。

と同時に、辛すぎると感情が乏しくなったり、目的を見失うと生きることが無意味に思えるなどは、(残念ながら)現代社会でも頻繁に見られることであり、これに対し現代でも十分通じる処方箋が示されていたので参考になった。

 

それにしても、こんな悲惨な事が今からわずか70-80年ほど前の出来事であることが恐ろしい。だったら、これから数十年後は、一体どんな未来が訪れるのだろうか。

現代にも未来にも確固たるものなど無く、だからこそ生きるためには希望が必要なのだろう。

 

・・

・・・希望という名のオナニーが(完)

コメント

  1. ONARA より:

    おおお!「夜と霧」
    これ自分が今非常に読みたいと思っていた本なのですが、
    まさかこの記事で取り上げているとは思わずに
    開いてうんうんって読んでしまったので
    若干ネタバレ気味になってしまいました。(汗)
    これでめげずに
    近日中に図書館で借りてきて読んでみようかなと・・・

    とかく希望を見失いがちなセミリタイア生活での
    精神的な気付きや助けにもなりそうな感じの一冊になりそう・・・

    • Tochi より:

      >若干ネタバレ気味になってしまいました。(汗)
      すいませーーーん!

      >近日中に図書館で借りてきて読んでみようかなと・・・
      この本は最近読んだ本の中でもトップクラスに面白い(=興味深い)本でした、ぜひ!

      >精神的な気付きや助けにもなりそうな感じの一冊になりそう・・・
      そうなんです、案外現代社会にも役に立ちそうな本にも思えました。
      実は著者は、希望とは諸刃の・・・だーーーっ!